信長と信玄 どちらが人材育成に優れていたのか?

徳川家康には今川義元の人質だった少年時代、「むごい教育」を受けさせる企てがあったという。「欲しいものを与え、したいことをさせて甘やかす」のがむごい教育。わがまま放題で役立たずの人物に育てるのが狙いだ。戦国時代にあって、隣国の大名が無能なことほど確実な安全保障策はなかっただろう。史実ではなく、実際の家康は今川傘下の優秀な青年武将として成人した。しかし桶狭間の戦いの後、家康がいち早く離反・独立した経過をみると今川家の教育が良かったとも思えない。一方、十代の少年らを近習として教育し、トップ自ら有能な吏僚、軍事指揮官を生み出していったのが織田信長だ。三重大学の藤田達生教授は「いわば『信長スクール』が存在した」と指摘する。

宣教師フロイスがみた岐阜城

宣教師のルイス・フロイスは1569年(永禄12年)に、布教の許可を得るため岐阜へ信長を訪問した。その時、岐阜城本丸で目にした光景を「入り口の最初の三つの広間には約百名以上の若い貴人がいたでありましょうか(中略)十二ないしは十七歳であり、下へ使命を届けたりもして信長に奉仕していました」と書き残している。家臣の子息らから抜てきした信長の近習たちだった。このフロイスの記録から「信長は次代を担う若い人材を身近に置いて育成した」と藤田教授は読み解く。

 「信長の親衛隊」(中公新書)の著書、谷口克弘氏は「歴代の信長近習の中でも、この世代はとりわけ優秀だった」と分析している。堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼、万見重元(仙千代)、森成利(蘭丸)らを輩出している。フロイス訪問の前年に上洛した信長には同時・多正面の「天下布武」の戦いが始まっており、人材はいくらでも欲しい状況だ。さらに版図の拡大に従い行政面の施策も増えていった。信長近習の役割も命令の伝達や書状の作成などから使者、訪問客の接待、城下町の造営、茶会や馬揃えなどのイベント設営などへと多様化していった。信長自身の出陣にはもちろん従軍し、遠方への援軍としても派遣された。

信玄が活用した「奥近習システム」

代表的な1人が堀秀政だ。後世に「天下の政治を任せられる」とまで評価されている。信長の代理として家臣への指示や譴責(けんせき)を伝える一方、キリスト教徒の屋敷地造営、安土の馬場建設、安土宗論(キリスト教と仏教との宗教論争)の設営などを担当した。さらに紀州、摂津、伊賀攻めなどに派遣されている。行政官と軍将校の1人2役で、「天下統一」が見えてきた1570年代後半からは休む暇なく信長に働かされている。近習に戦の経験を積ませるのは信長の方針だったようだ。1582年(天正10年)には堀秀政が秀吉の次の長浜城主、菅谷長頼は前田利家の次の越前府中城主に内定していたという。本能寺の変があったのはその年の6月である。

 「信長スクール」より以前から戦国トップが直接人材養成していたのが、ライバル・武田信玄の「奥近習システム」だ。「武田氏滅亡」(角川選書)などの平山優・武田氏研究会副会長は「近習の中からとりわけ将来を見込んで選抜した若者たちが奥近習で、信玄の寝所まで入ることができ、日常的な薫陶を受けていた」と指摘する。使者、来客の接待、戦場の偵察、新たな仕官志望者の面接、家中の人事評価まで担当させていたという。少年のころから信玄に直接仕え私心のないことが認められていた。

 武田家は戦国期きっての名門のひとつだ。それだけに閥族の力が強く、新たな人材登用には困難が伴っただろう。平山氏は「『奥近習』こそ信玄が自由に側に置くことができる人事システムの空白区域だった」と分析する。信玄と限られた重臣との秘密会議を傍聴する資格まで、奥近習には与えられていた。「そこで信玄自身の帝王学を仕込み、あうんの呼吸を身につけた若手の育成に努めたのだろう」(平山氏)。奥近習出身を代表する武将に真田昌幸がいる。「信玄が『我が両眼のひとつ』とまで高く評価していた」という。歴史上、江戸幕府を開いた徳川軍に2度完勝したのは昌幸だけだ。1度目は150万石対6万石、2度目は250万石対6万石(石高は推定)。それでいて、昌幸には家康に気後れした様子がない。かつて信玄は三方原の戦いで家康を破っている。「信玄より伝授され、そばで信玄の采配をみて育った昌幸には十分な勝算があったのだろう」と平山氏はみる。

降将の人質を抜てきした信長

信玄の「奥近習システム」は範囲が武田家中に限られていた。その限界を簡単に超えて、信長は降伏してきたばかりの敵将の人質まで抜てきした。信長と敵対していた六角氏の重臣、蒲生賢秀は1568年に降伏し13歳の子息・氏郷を人質に差し出した。初対面で「此の児、眼常ならず」と信長が認めたという逸話が「勢州軍記」に伝わっている。藤田教授は著書「蒲生氏郷」(ミネルヴァ書房)の中で「フロイスが見た岐阜城の若い貴人たちの中に氏郷がいた可能性は強い」としている。信長は人質を城内で監禁していたのではなかった。氏郷には儒教や仏教、和歌、連歌、茶の湯、作庭を名だたる高僧や一流の公家らに学ばせた。信長流の英才教育だったのだろう。戦上手の武人というだけでなく、氏郷は茶道で「利休七哲」の1人に数えられるほどに後年なっている。藤田教授は「岐阜城にいた時期が氏郷の生涯にとって最も重要な意味を持った」と評価している。

 こうした期待に氏郷も応えた。信長の夜話の途中で眠ってしまう小姓もいる中で、氏郷だけはいつも熱心に聞いていたという。初陣で敵の大将を討ち取る殊勲を飾り、信長は自分の娘と結婚させて女婿とした。以降、畿内掃討戦から対武田戦まで氏郷は信長に従って戦いを続けた。本拠地の滋賀県日野町では「楽市・楽座など信長譲りの積極的な商業振興策や城下町づくりを進めた」(同町教育委員会)という。

 社員教育に関心を持たない経営者など、国内外のどこにもいない。ただ経営学者の入山章栄・早稲田大ビジネススクール准教授は「グローバル企業の人材育成に共通しているミッションの一つは、その市場・ビジネス環境の特性にしっかりと適応できる人材を育てることだ」と言う。求めているのは、その会社に適合することや忠誠心などではない。個々の事業の切り出しなど経営環境の変化にも対応できる人材作りが1番の狙いだという。森蘭丸ら信長スクールの多くは本能寺で信長と運命をともにした。しかし生き残った出身者は次の時代に相次ぎ大名になった。長谷川秀一は越前で10万石、堀秀政は同北庄で18万石(与力大名らも合わせると約30万石)、蒲生氏郷は奥州会津に91万石。

 しかもみな早世してしまったが、せめて秀吉より長生きすればその後の歴史はどう動いたか分からないとの評価も残っている。信長スクールの人材育成策には、現代でも通用するヒントがあるかもしれない。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180918-00010001-nkbizgate-bus_all&p=1

しん笑

どちらも優れていることに疑いはないけど、活躍した舞台の差で信長の育てた人材がスケールが大きいような気がする。ただ、信玄の育てた人材は武田滅亡後、ずいぶん徳川に吸収されてるから、やっぱり信玄もすごいんだろうな。

メットくん

家康は四天王にさえ大録を与えなかった。その辺がスケールの差かな。そのかわり今川武田の家臣は何百年も重職につけたけど。

 

 

ピンク

人材育成というより、古い家柄格式、身分にとらわれず、幅広く人を集い、その中から能力を見極めて登用し、適材適所に配置する。これこそが信玄や信長のやったことじゃないだろうか。

育成能力ではなく、評価能力が高かったというのがあってるような気がする。

仮面

じつは信長も信玄も条件は全く違うがある意味同じ事をしていて、それは置かれた環境の中でベストやワンダーを尽くし続けたに過ぎない
この時代は選択を間違えば死ぬ。敵にも家来にも殺されるし、収穫や金が少なくても餓死する
だから情報戦とハッタリと何よりも他の人が気付かない部分を武器にする目敏さの差が残酷に生死を分ける
逆説的になるが、互いの目敏さが拮抗し隙が無かったからこそ、この両雄には直接対決が無かったと言える

目隠し

戦争は勝ちを確信出来るケースでなければ手段にはならない。川中島や桶狭間みたいな合戦は仕方ない部分があるがそういう意味では愚策で、後年川中島の伝聞を聞いて盛り上がる部下を非難した秀吉の気持ちも何となくわかる思う
まぁそういう気の張った生活続けてたから心労で倒れる武将は沢山いたんじゃないかな

鳥仮面

信長の場合は人材育成と言うより適材適所に有能な人材を配置したイメージがある。
古参や新参問わず各々の適正を見極めて活躍の場を与えれば勝手に人は育つ。
後年は方面軍を組織し盤石な体制を作った。

かん(笑)

織田領国内の大和での記録だと武田上杉の強さは日本一といわれ、
また正親町天皇?だったかの評価だと信長は古今無双の名将といわれたらしいね

まゆ八重歯

何に優れてるかによるんじゃねえかな
抜け目無さと運は信長
政略は信玄
って感じ

メットくん

治政に関しては人材のやりくり含めてやはり信長かなと思うけど、軍事面では信玄に分があるような気はする。

ピンク

信長軍は確かに堀政秀や蒲生氏郷は文武両面に秀でた功績を残してるけど、いわゆる純粋な猛将タイプは勝家くらいしかいない。

対する武田軍は馬場信房、山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊って武田四天王だけでも猛将揃いで、これに真田昌幸のような知略に長けた武将までいるわけだから。

 

 

目隠し

実際に戦ったら兵器の差で信長に分はありそうな気もするけど、信玄と昌幸が揃ってたらどう転んでたかは分からない。

昌幸と半兵衛の軍師対決は見物だろうな。

かん(笑)

時期にもよるけど昌幸と半兵衛が知略を振り絞ったあげく小競り合い続きで戦況が膠着。
状況をいちはやく察知した秀吉と馬場美濃守が和睦をとりまとめる

って展開になりそう。

目隠し

戦は物量だよ

モヒカン

武田家は名前がカッコいいから名前勝ちしてる部分がありそうやけどね。
織田家も実績では猛将って言えるくらいの武将そこそこ居るし。

しん笑

そもそも信長自身も戦さ場では比較する大名を探す方が難しいレベルの猛将タイプ。
あの長篠の翌年に多数の鉄砲衆が待ち受ける本願寺勢に寡兵で突撃して被弾しながら明智光秀を助け、敵を打ち破るとかめちゃくちゃ凄い。

らん

個々の能力では武田家の方が大分上だと思う。

カグヤ

今回出てこないけど、秀吉が育てた人材もすごいです。
特に秀吉門下の人材は数字に強く、石田三成、増田長盛ら奉行衆はもちろん、武功派のイメージが強い加藤清正や福島正則、黒田長政も実に数字に強かった。
これに比べ、徳川の家臣は豊臣家臣団に比べて実務に慣れない者が多く、飛びぬけて有能とされた本多正信、正純親子でさえ、秘書の役割が果たせる程度。
家康は大御所として駿府に入って後、江戸の秀忠に譜代の家来を統率させる一方、藤堂高虎や加藤嘉明といった旧豊臣系の人材を手元に集め、天下の政治を行った。

 

 

ジジ

秀吉は自分でシステム作っておいて、秀次事件で全てを崩壊させたのが豊臣政権の終わりの始まり

目隠し

家康は意図的に自分の死後に旧豊臣系も包摂した駿府政権のシステムを解消するよう仕向け、江戸の秀忠政権が唯一の政権になるようにした(豊臣家を滅ぼした直後に発布した武家諸法度を諸大名に発表する役を、自分の官房長官である本多正純ではなく秀忠の官房長官であった土井利勝にやらせた等々)。
その結果、旧豊臣系は外様大名として中央の政治から排除され、徳川幕府は全国政権でありながら、限られた地域の大名しか政治に関与できないシステムになった。
これが幕末、徳川幕府が見捨てられていく大きな要因になる。
実は家康も終わりの始まりを仕込んでいた。

ピンク

信長は人材育成というより家臣の能力を見抜く目が凄かったと思います。こいつはすごいと思えば出生関係なく重く用いるし、こいつはだめだと思えばスパッとクビにする。
だから育てたというよりも優秀だから勝手に育った感じでしょうか。その辺は今で言う外資系のようなメリハリがあったと思います。

かん普通

環境の違いが大きすぎる。
甲斐は当たり前だが海がなく上方に遠い。
武田家で本格的に海を知れたのは駿河遠江に侵攻してから。この差はあまりにも大きい。どれだけ信玄が優秀で育成に長けていてもこの差は埋めようがない。

モヒカン

武田信玄は、京から遠く、生産力の低い甲斐を本拠地にして、信濃をはじめとする近隣諸国を切り取り、上杉・北條・今川・德川・織田などの強敵に囲まれながら、西上作戦で中原に鹿を追う一歩手前までいったことは驚嘆に値すると思う。
織田信長なら、信玄と同じ条件下であそこまでいけただろうか?

メットくん

最後に、他社で研修を受けた優秀な人材を経験者枠で採用したのが家康。自社研修育成組と併用。さすがだね。

しん笑

信玄はその時代の枠の中ですごい。
信長はその時代の枠を破ったからすごい。その当時の学問や用兵、戦略などのみで考えると信玄が優れてるかもしれないが、信長は時代を飛び越えたからなぁ。

らん

信長は身分に囚われず才能あるもの功を挙げたものを重用する政策をしていて楽市楽座もしたし家臣たちも邁進した。
家康も負け戦から死ぬ気で学び秀吉に領地を転封させられた事にも耐えた。
信玄は戦さの才能と家臣に恵まれたね。信玄もかなりの苦労人だったとか…。
赤備えはやばかったらしいし。

 

 

まゆ八重歯

経済的には信長の方が恵まれてるから、部下の外因的なモチベーションは高かったでしょうね。哲学的には時代の先を行きすぎて、部下には理解不能でしょうけど。笑

仮面

領地が京に近く、海もあった信長と山国甲斐で四方は山と敵だらけの信玄では事情も違う

カグヤ

スタートアップ時では信長の方が弱小ですけどね。

モヒカン

育成は互角だとしても、信玄だと部下を大名にさせるのが無理。高坂でも、城主で方面軍とかに出来てない。信長は人使いがキツいというが、部下に権限と仕事を見事にあげている。ノルマキツいけど。

かん(笑)

部下へのキッツいノルマのお蔭で自分の命迄無くなるけどね・・・

らん

尾張、甲斐では国力も地理的な条件も違い過ぎるから比較は難しいね
ただ鉄砲や長柄槍の集団戦を採用した信長と騎馬とのろしを利用した信玄の能力は高いでしょ

ピンク

信長がダントツ優れている。
自分の薫陶を聞かせるのではなく、周囲の信長や若者の価値観を覆すようなものを平気で見せる。
それって、人財が育ちすぎて離反する可能性も高いのに。特に戦国ではやれないよ。普通は怖がるもんでしょ。

仮面

徳川幕府の制度は甲斐の国のシステムをだいぶ参考にしているようだが。
傑出した人物対傑出した制度って感じを受ける。

メットくん

完全トップダウン制だった当時に、合議制を用いたのは信玄だったよね。両者ともカリスマである事は違いない。

ピエロ

百姓でも有能なら家臣に取り立てたという点では、信長も信玄も共通している。秀吉しかり。高坂弾正しかり。ただ、結局は信虎以来の譜代を重用していたのもまた信玄。山本勘助でさえ、侍大将どまりだから。信長は譜代でも結果出さなければ容赦なく追放した。佐久間信盛とか。

 

 

こし

信長は信忠にしろ信雄、信孝にしても跡継ぎは育てられなかったわけだから。ただ信長には人材の育成にしても内政、外交、戦術にしてもズバ抜けていたので、それを見てみんな学んだのであろう。

しん

信忠は優秀だったらしいですよ。
本能寺の変に巻き込まれた所為で早くに亡くなりましたが。

鳥仮面

でも自刃してしまったからなあ。形式的であっても家督は相続していたのだから、なんとか逃げることができなかったものか。有楽斎は逃げ切れたのだし。

メットくん

信忠は逃げようと思えば逃げれたよ。勇猛さが裏目に出た。応戦してしまった。

ジジ

信長が躊躇するくらい武田を瞬殺したしね信忠。
親父の信長が合戦場では勇猛果敢な猪武者だし。
本能寺、二条城で討死した面子見たら普段から高官クラスが決死の覚悟でいつも取巻きとして居たんやなと思う。
本能寺の変ほど政権中集メンバーが刹那に大将に殉死とも言える無駄死にした騒乱は無いんちゃう?
信忠もかなり人気有ったと思うわ。

ぺろ

部下の教育より大切な息子の教育に成功しているとは言い難い信長と信玄であった…

鳥仮面

信長は百姓出身の秀吉をドンドン出世させた。
実力主義者で戦場でも恩賞や出世目当てで、士気が高まったと思う
光秀に裏切られてしまったが、最強家臣団だったと思う

ピンク

確かに実力主義ではありましたが、内外問わず臣下に置いた結果が光秀の謀反であり、松永や荒木の裏切りでもある気がします。

余裕かまして流れ者も受け入れたが為に
まさに足元をすくわれたわけです

かん普通

だけど結果的に武田家のほうが新参者よりも
譜代家臣優先してるから…
織田家のほうが人事も育成も上手の軍配。

カグヤ

やっぱり信玄かも。間にいた徳川家康は同盟国の織田よりも甲州流を重宝したし、武田の遺臣を多く抱えたし。

ちび笑

それ武田家臣が優秀だけだったやで

こし

キレる時が多々あるけど、基本お人好しで、特に親族に激甘なのが信長の魅力でもある。

しん笑

信長の部下で最も優秀だったのが言わずと知れた秀吉だがこの男は百姓出身の小汚い小男だ。
こんな存在を大名まで引き上げることができるのは信長の他にはいない。
育成プラス登用という面では完全に常識破り。

 

 

こし

信長株式会社は超絶ブラック企業ですやん…

しん笑

信玄と比べてどうか?とかではなく、

信長だけは世界史レベルで語る必要があると思う。

メットくん

同感、次元が違う

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